Roamers Lifeという生き方

エストニアをベースに無拠点生活を目指す奮闘記

お金の本質と時間銀行について

新しい時代のお金の教科書 

今回は、10日前に出版されたばかりの「新しい時代のお金の教科書」について書いていきます!

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)

 

 

 

物々交換の時代など存在しなかった

 貨幣についての歴史を勉強すると、貨幣経済が始まる前の時代は、物々交換で成り立つ経済だったという説が99%語られています。

しかし、貨幣経済の前の時代は、贈与経済によって成り立つ経済でした。母親が子供に食料を贈与するように人類の歴史は、贈与経済で行われてきました。

母親の例のように見返りを求めない純粋贈与というものもありますが、動物を仕留めて同じ部族の仲間に振る舞うという行為も贈与でした。将来に見返りを期待する事も贈与です。(実際、部族内での贈与では、返礼が暗黙の了解になっています)


物々交換ではお互いに欲しいものが違った場合に取引が行えないという不便さを解決するために貨幣が生まれたと説明をされてきました。僕も同じように教わりました。

しかし、お金の始まりは物々交換ではなく、巨大な石を資産とした記帳システムから始まったという説が今では有力になっています。

 

これは、ミクロネシア諸島にあるヤップ島で発見されたフェイというドーナツ型の大きな石の貨幣が起源です。

このフェイを取引毎に移動させるのは不可能なので、自分たちの取引記録をこのフェイに刻み、取引を行いました。

しかも、ヤップ島では海に沈んでいると言われているフェイさえも公式な貨幣として認められています。

 

台帳管理と聞いてピンと来る人もいると思います。
そう、ブロックチェーンです。らせん的発展と言われるように、時代の寄り戻しがテクノロジーを駆使して起きています。(らせん的発展とは、らせん階段を上から見ると同じところを行ったり来たりしているだけだが、横から見ると上に進んでいることに擬えた法則)

 

 

 

信用とは何か?

お金を語るときに、信用は切っても切れない関係にあります。

信用力を測る指標として「お金」が使われます。例えば、クレジットカードを作るときも過去のお金の使い方をみて信用力を判断します。

本書での信用の定義は、

一言で言えば「(理由を)問い詰められないこと」です。お金の信用に関して言えば、「価値あることの理由を説明せずに済むもの」のことです。

と書かれています。

なぜお金が信用できるのかと問えば、現代では、国家の信用に関わってきます。

 

人が信用を獲得するには、価値を創出して価値を積まなければいけません。その価値についての方程式についても説明がなされています。

価値=(専門性+確実性+親和性)/  利己心

分母である利己心を抑えれば抑えるほど価値が増幅するということです。価値が増幅するということは信用が貯蓄されます。

"自分の信用を最大化する"という利己心を実現するためには、利他的な行動をしなければいけないという利己的な遺伝子にも通じる話なので紹介しました。

 

 

 

数値のトリック

僕たちは、数値が大好きです。順位、偏差値、成績そしてお金といったように数字に支配されています。

私はお金が数値であるというこの一点が、実はお金をお金たらしめている所以ではないかと疑っています。数字は、世界共通ですから誰に対しても通じます。ここにお金のトリックがあります。人は数字で表現した途端に、そこに意識が吸着していくというものなのです。

 

幼い頃から成績で順位付をされたり、背の順で並ばされたりしました。どれだけ勉強したというプロセスではなく、偏差値で評価をされてきました。

お金も同様です。お金の質ではなく、量が重視されています。

「どんな経緯でお金を手にしたのか?」「どんな思いでお金を支払ったのか?」という文脈は無視され、「いくら稼いだのか?」「いくら使ったのか?」という数字に固執してしまいます。

数値化によって、比較できるようになりましたが、お金の裏にある"実体価値"が分離してしまいました。

 

 

 

貨幣の本質的な問題は、格差ではなく文脈の毀損 

現代に置いて、あらゆるものが最終形態として金融商品化されています。そこでは多くが株価という数字や記号で表現され、単純化されて、比べることができる形にすることで取引が可能になっています。

しかし、その金融商品の背景には、企業や人々の営みがあり固有の物語があります。

それらは、数値で表現し比較できるものではないはずなのです。

 この文章に感銘を受けました。

つまり、貨幣による数値化によって比較できなかったものが比較できるようになりました。しかし、本来は比較などできるはずがありません。

 

例えば、有名なシェフが作ったオムライスよりも、好きな人が作ってくれたオムライスの方が断然美味しく感じますし、評価は高くなります。

マクロ的に見れば、有名シェフの作ったオムライスの方が評価も高くなります。しかし、世界はマクロではなくミクロの世界の連続で動いています。

貨幣によって数値化し、マクロの視点に立って価値評価をしていた時代が20世紀とするならば、21世紀はミクロの視点に立って個人が価値評価をする時代になると言えるかもしれません。

 

なので、普遍的な価値というものは存在しません。一見同じ価値のものに見えても、一つ一つに全く異なるストーリーがあり、全く異なる価値が独断と偏見で各個人が決めるようになります。

ハンドメイド商品に似ているかもしれません。

文脈があればあるほど、価値のあるものが伝わります。今世紀に必要なのはつながりと物語であり、文脈があればあるほど価値があるのです。徐々に周りの人や財と物語を作っていくことの大切さがわかります。

 

 

 

ユートピアなのか?ディストピアなのか?

山口さんのコラムの中で2040年のユートピアの社会システムデザインを作るという中で「時間銀行」について説明がされています。

二〇三五年。お金も教育もない若者達は、数も少なく政治でも発言力がなく八方ふさがりだ。(中略)

そんな中、ある勇気ある若者は、小さなビルの看板をみつける。そこには時間銀行と書いてある。そこで、若者は、未来の時間を五年後から五年間差し出す代わりに一億円を得る契約を交わす。(中略)

さて、若者はお金を元手に大学に行き、技術を得て新しいヘルスケアシステムを発明し、成功する。まとまったお金が彼にイノベーションをもたらしたのだ。(中略)

五年後、若者は時間銀行に行き、約束通り自分のこれから五年間を差し出すと言う。すると時間銀行は、五年間分の時間を君の今持っているお金で買い取れば良いと伝える。時間でお金を買えるとともに、この銀行はお金を時間に換えることもできたのだ。

そして幸福なことに、その頃には、若者の発明によって人々は長寿となり、時間の価格は昔よりも安く買えるようになっていたのだった。そこで、若者は持っていたお金で自分が差し出すべき時間を買い取り、残ったお金を時間銀行に預けた。そしてしばらくするとまた新しい若者が時間銀行にやってくる。

 僕は、この物語を読んでディストピアな世界だなと思いました。まさに、ミヒャエル・エンデの「モモ」で登場する時間どろぼうの世界観だと感じました。

 

まず、お金と時間を交換することはできません。なぜなら、お金はストック型ですが、時間はフロー型であり、時間を貯蓄することは生物学上不可能だからです。
そのため、結局お金を持つ人は有利であり、時間を持つ人は不利になる構造を作ることになります。

 ここでは書かれていませんが、既存の資本主義がそのまま時間銀行に組み込まれているとしましょう。すると、利子をつけて返す必要があります。

時間は、フロー型なので自分に残された時間は、1秒1秒減っていきます。利子をつけて時間を返すと言うことは、当初は五年間だったものが利子によって奴隷期間が増えることになります。

 

お金を時間に換えると言う行為を具体化すると、1時間2,000円(5年で1億円で算出)と言うことになります。

余命が短い老人が1日長く生きたいからと48,000円を時間銀行に払うと1日余分に生きられると言うことになります。時間銀行は神様なのでしょうか?と言う疑問が湧きます。

 

有意義に過ごすべき一瞬一瞬の人生(時間)を、時間銀行よって効率的に忙しく過ごさないといけないと洗脳をされてしまう気がしてなりません。

否応無しに時間とともに肉体は衰え、刻一刻と人間は死に向かいます。のんびり、好きなことを好きなだけ悔いなく過ごす人生の方が僕は幸せだと思っています。

なので、時間銀行に時間もお金も預けません。

 

時間は、担保になり得ません。なぜなら、人生はいつ終わるか誰にもわからないからです。明日死ぬかもしれません。今夜死ぬかもしれません。人生という時間は常に流れていて、いつ終わるのか予測できないため、担保になり得ないのです。

 

 

 

まとめ

「貨幣の本質的な問題は、数値化にある」と書かれている点に腑に落ちました。

貨幣はツールであるにも関わらず、数値の魔力によって目的化されてしまう。

今、僕もコミュニティ通貨を仮想通貨という形で設計していますが、ここ最近ワクワクしています。なぜなら、貨幣に文脈(歴史や物語)を載せる試みをしているからです。

 

具体的には、UKIUKIと言う通貨を作ります。

UKIUKIを使うときは、サンクスレターを書くことが必須になっているのですが、このUKIUKIに今までのサンクスレターを紐ずけていこうと考えています。

つまり、一見同じ1UKIであっても、全く異なるサンクスレターが紐ずいていて、受け手によってサンクスレターの価値も異なるので、UKIUKIの価値も全て異なるということが実現できます。

取引の汎用性を高めるために、UKIUKIも数値化を実行しますが、感謝経済という「ありがとう」で成り立つ経済圏を実現するためにも、お金に文脈を載せることにチャレンジします。

 

今回のコラムは僕にとってはディストピアな世界でしたが、受け取る人の価値観によってはユートピアかもしれません。

僕にとって人生とは、「今この瞬間」のことを指していますし、死ぬことも肯定的な出来事として捉えています。

広義的な意味での人生の意味を僕は、壮大な暇つぶしと捉えています。人生は、無駄な時間であり、無駄な時間のなかで、いかに無駄で面白いことをやれるかが人生の意義だと考えています。

そのため、時間銀行のように、時間を定量的に貨幣化して金融商品にしてしまうことは絶対にしたくありません。

 

「人生は、一瞬であり無駄である」と考えているので時間銀行をディストピアと捉えているのだと改めて考えさせられました。

 

 

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)