人生は"無駄"である
僕の人生哲学の一つに「人生は無駄である」というものがあります。
それに関して、今日は書きます。
なぜ、人生は無駄なのか?
"無駄"という言葉の語源から考えてみましょう。
無駄の語源を調べてみると、"駄"というのは、馬に積んだ荷物のことを表しているようです。昔は、荷物を運ぶときに当然のことながら車や船のようなものはなく、馬を使っていました。馬の運送屋みたいなのがあり、何も荷物を乗せずに歩いている馬がいるとその馬の分だけ売上が減ってしまうわけです。なので、そのことを"無駄飯"と言ったようです。それが短くなったのが現代でも言われている"無駄"という意味らしいです。
僕がなぜ、人生を無駄と定義する理由は、経済合理性の上で"無駄"と判断される時間の方が幸福度の高い人生だと感じるからです。
どういうことかといえば、経済合理性に基づいた無駄のない人生とは、365日毎日せっせと働き、お金を稼ぎ、豪邸に住み高級車を乗り回し、家庭を作り、子供の教育にお金を投資し、子供が巣立ってからは、貯金と年金でのんびり過ごす。
という世間で言われる成功者のロールモデルです。
僕はどうしても、この考え方に違和感を覚えてなりません。
なぜなら、365日成功を夢見て、せっせと働き、お金を稼ぎ、欲望に任せて使い、また稼ぐ。
こんな人生は平凡だなと。
経済合理性で考えれば、「時は金なり」ということわざ通りで、暇な時間を極限まで減らし、お金が儲かることに時間もお金も投資していく人生ですが、果たして本当にそれは幸せになれるでしょうか?
おそらく、お金持ちにはなれますし、成功者になれるでしょう。
僕は、お金持ちにも成功者にも興味はなく、自分が"幸せ"と感じる人生を"今"味わいたいんです。
だって、人間は"今この瞬間"しか生きていられないので。我々は、過去の記憶を持ち、未来を想像しながら生きています。しかし、リアルに生きられるのは現在だけです。
今の積み重ねでしか、未来はありませんし、過去もありません。
今現在が幸せでなければ、過去の記憶も幸せではありませんし、未来の幸せなど思い描けません。
僕にとって幸せだと感じる瞬間は、気の合う仲間とお酒を飲みながらくだらない話をしているときや、哲学的な話をしているとき、夜空をみながらぼーとしているとき、旅をしているときなどです。
こうやって「幸せ」を感じる瞬間をまとめてみると、案外身近にありますし、経済的に考えると無駄な時間と捉えられるものばかりです。
そのため、僕の人生哲学においては、この無駄な時間を最上な人生と考えているため、人生は無駄であると定義しています。
無駄を生むことの幸せ
最近、よく考えることがあります。
それは、自分が創っている感謝経済も無駄だなぁと思うのです。
なぜなら、今の価値観に置いて、今作るものは次世代の人類から見たら古いものだったり、しがらみになったりするものだからです。
全てのものは、時間軸は異なるものの"諸行無常"です。
なので、感謝経済も諸行無常なので、どんどん時間が流れる中で変化しますし、全く真逆に進むこともあります。
資本主義だって同じです。500年ほど前に先人が世界をより良くしようと生まれた資本主義ですが、21世紀を生きる我々は資本主義に対して異を唱えています。
このように、次世代にとっては価値の無いものと見なされる可能性は大いにあるわけです。
そのように考えると、感謝経済もまた無駄な創作なのかもしれません。
しかし、この感謝経済を構築するという想いを人に伝え、共感を受け、一緒に創る過程そのものが自分にとって"幸せ"だと感じるんです。
しかも、その感謝経済は、21世紀を生きる我々にとって希望の光でもあるわけです。
資本主義という単一的な指標によって成功が定義され、皆が同じ方向に向かう時代から、多様な価値観の人々が互いを尊重しあい、協調性を持って生きていく時代を創ること自体に意味を感じており、生かされている価値さえも感じています。
たとえ、将来世代がポスト感謝経済を目指し立ち上がったとしても、僕はそれはそれで美しいですし、そうなってほしいと願います。
普遍的なものは幻想でしかなく、時とともに移り変わっていくのが自然です。
感謝経済が21世紀を照らす希望の光となれるように今世紀を生きていこうと思っています。
人生は、無駄な時間の方が幸せですし、無駄な創作活動ほどワクワクするものはありません。